大學丼に満悦のkarate、更なる寄り道
前回は旦過市場でトンデモ丼を
平らげてきました。
ただ昼ごはんを食べるだけで、あの冒険感。
北九州市に来たら毎回やってしまいそうw
お腹も膨れたので、お次は歴史散策です。
思わぬ文豪と、思わぬ神社に遭遇してきました。
今回のラインナップは、こちら・・・
◆北九州市は、かの大文豪の出身地!
「脱領域の文学」と評された松本清張
◆石って切るものなの?
「小倉城」の石垣に見る石切りの苦労
◆天守焼失から長州征伐、
◆そして版籍奉還を経て陸軍基地へ
◆「巌流島の戦い」と、
「陸軍旧第十二師団」と「森鴎外」のカンケイ
北九州市は、かの大文豪の出身地!
「脱領域の文学」と評された松本清張
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/06/AD6C8606-9A4E-4A6D-BA19-88C9CFBECC3C-1024x768.jpeg)
初めての小倉城に胸の高鳴りを
抑えきれない中、
その道中、開けた場所に出たかと思うと、
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/06/DAEC1356-E65A-4239-AE3B-031DF8EEEC9D-1024x768.jpeg)
不意打ちの「松本清張記念館」!!
え、北九州とどういうご関係・・・?
松本清張(まつもと せいちょう 1909-1992)
小説家。代表作に『点と線』や『眼の壁』など。作家活動は42歳になってからと遅咲きであったが、直木賞候補作が芥川賞に選ばれるなど、分類をこえた作風を最後まで貫いた。その様から「脱領域の文学」評されるように。歴史小説もさることながら、推理小説の地位を確立した大人物と言える。
『点と線』といえば、時刻表トリックですね。
ばあちゃんが、2時間ドラマ大好きやったなあ。
意味わからんながらも、たまに一緒に見てたっけ。
karateは、ミステリーはアガサ・クリスティーと
江戸川乱歩くらいしかたしなんでいませんが、
松本清張も代表作は高校生の頃に読みました。
ミステリーの何たるかも十分理解していない
小僧の頃に読んだきりなので、
次に小倉へ行く前に再読必至ですな。
後ろ髪をぎゅんぎゅん引かれつつも、
本来の目的(寄り道ですけど)へと急ぎます。
きよはるさん、また必ず来ます!
石って切るものなの?
「小倉城」の石垣に見る石切りの苦労
まっすぐ進んでいくと、
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/06/26C61692-DA7D-4EB0-85B9-413756AB7C13-1024x768.jpeg)
お堀が見えてきました。
幅こそないものの、高さがあって
立派な石垣です。
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/06/16CAE2D5-AEC3-4E50-A157-D9E5614CCF21-1024x768.jpeg)
ぐるっと回って大手門へやってきました。
荒々しく積まれた巨石が、
細川氏の力を物語ります。
さあ、石垣へ来たらやることは1つ。
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/06/E40EA3B4-EA5D-4FB9-9234-A611E7888F2E-1024x768.jpeg)
探すでしょ、家紋!!
それと個人的に、
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/06/21527D10-F7B4-43F0-A02A-BD804CBCAA67-1024x768.jpeg)
矢穴も好きだったりしますw
矢穴というのは、石を割る際にノミで掘った穴。
その長方形を等間隔をあけて横に連ねていき、
矢と呼ばれる楔を打ち付けて、割るのです。
・・・ちょっと何言ってるのかわからない
という方のために、イラストを用意しました!
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2020/12/石切り(矢穴イラスト).jpg)
ないよりはマシ、ですよねw
こんな感じで穴を掘っていきます。
そこへ矢を打ち込んでいきます。
矢は鉄や木でできていますが、
打ち込んだだけでホンマに割れるんか??
と思うのも、無理はありません。
karateも実際に目にするまで信じられませんでした。
矢を順に少しずつ打ち込んでいくと、
あるところでパカッと綺麗に割れるのです。
石切り場って言うわりに、石切ってへんやん!
そうです、さすがに石は切れません。
でも石切り場は石を「切り出す」場だったのではと
karateは思います。
天守焼失から長州征伐、
そして版籍奉還を経て陸軍基地へ
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/06/36BE19C0-DB14-4D1C-B65B-644941942708-1024x768.jpeg)
槻門(けやきもん)へやってきました。
下の方は野面積みに見えますが
上に乗っている部分は修復後でしょうか。
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/06/BC093F66-FE62-4E6A-9D7D-42D9C836A90B-1024x768.jpeg)
天守台の石垣は、完全に野面積みですね。
戦国時代らしい風貌を残しています。
角に見えるは石落としかしら。
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/06/EAC42D57-0E40-47BA-A84C-3FB9A781AF95-1024x768.jpeg)
少し引いて見てみました。
絶妙に気に隠れていますが
小倉城は日本唯一の唐造りの天守。
唐造りというのは、5階部分が4階部分よりも
大きく設計されており、更に間に庇(ひさし)が
ないものを言います。
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/06/4E861194-1107-4CBC-AD1E-0E7BE5C83E3D-1024x768.jpeg)
こっちの方がわかりやすいかな?
リバーウォーク側から撮ったものです。
よく見ると4階部分よりも5階部分の方が
せり出しているの、わかります?
ここから見た小倉城が
一番カッコイイ気がします。
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/06/1F6AF036-C101-4E80-A8EF-4203A7362D49-1024x768.jpeg)
いよいよ入城します!
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/06/34FD99E5-6162-4865-A05F-287AC32EAB6C-1024x768.jpeg)
小倉城の歴史が、ジオラマとともにずらり。
当時の生活の様子を再現しています。
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/06/3D4B7580-5B37-447D-86BF-7D56EBBA0854-1024x768.jpeg)
そして、
実は小倉城すごいんやでコーナー!w
過去建造された城は約25,000ほど。
復元含め現存のお城は200城。
それを考えれば天守の高さ第6位というのは
ちょっとすごいかもしれません。
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/06/26426909-167A-491A-8450-08369FFCD545-1024x768.jpeg)
面積についてはぶっちぎりで1位!
なかなかやりおる。
小倉城は細川氏の居城でした。小倉藩初代藩主は、細川忠興(ただおき)。細川といえば、応仁の乱ですかね。忠興は勝元とは少し世代が違いますが親戚のうちに入ります。
ちょうど今年(2020年)の大河である『麒麟が来る』で描かれた、応仁の乱から続く戦国時代。将軍家の力が弱まり、8代将軍の足利義輝に仕えた三淵藤英(ふじひで)と、異母兄弟の細川藤孝(ふじたか)。三好三人衆に討たれた義輝の跡を継いだのは、弟の足利義昭でした。
義昭は織田信長の力を借りて京へ入り、信長の庇護のもと、将軍職を全うしていきますが、守ることに長けた義昭と、壊すことに長けた信長、次第に相容れなくなり、次第に敵対するようになります。将軍の治める世を夢見た兄、藤英。新しい世の波を感じ、将軍のもとを離れて信長についた藤孝。兄弟で明暗をわかち、将軍家が敗北。京都から追放されてからも、将軍復権に心血を注いだそう。
さて、時機をとらえられた弟の藤孝ですが、信長の家臣となり、明智光秀とともに山陰へ攻略に遠征している。本能寺の変以降は息子の忠興に家督を譲り、忠興は関ケ原の戦いで石田三成勢と戦い、のちに小倉藩初代藩主に任ぜられ、小倉城を築城するに至ります。
江戸末期になると、外国船が入って来たり尊王攘夷が叫ばれたりと、世間が大きく渦を巻き始めます。そのただ中に、小倉藩もいました。長州征伐、薩長同盟、倒幕、版籍奉還、挙句の果てには廃藩置県によって福岡県が置かれ、県令に有栖川宮様がいらした。
時代から武士が追い出されるなんて、誰が予想できたでしょうか。1人の武芸の達人を育てるよりも、100人の素人に銃の使い方を教える方が色々と都合が良かったんでしょうな・・・
「巌流島の戦い」から
「陸軍旧第十二師団」と「森鴎外」のカンケイ
そういえば城内の展示物に
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/06/908585AB-07BA-463E-A305-4D687BE317A7-1024x768.jpeg)
こんなものや、
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/06/00248687-9583-48ED-B64B-A922C43478A6-1024x768.jpeg)
こんなものが。
佐々木小次郎になりきって、
宮本武蔵と戦えるようです。
「巌流島の戦い」は小倉近くの舟島(船島)が舞台。
巌流というのは、佐々木小次郎の剣術流派。
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/06/C19323B7-CDB7-45F8-AC45-120202F18F2D-1024x768.jpeg)
小倉城敷地内には、いたるところに
宮本武蔵と佐々木小次郎ゆかりのものが。
「誠心直道」というのは、宮本武蔵がたどり着いた
「二天一流」という流派の真髄。
武蔵といえば、二刀流ですね。
真剣を振ったことのある人ならわかると思いますが、
あれを片手で打ち込んで、骨を断つには
相当な腕力が必要だったと思います・・・
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/06/04B3CA91-7D5C-417A-8F69-1C899D150481-1024x768.jpeg)
両名が対峙しています。
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/06/3819EA9E-7846-4D69-9DB5-2935C798E588-1024x768.jpeg)
宮本武蔵、当時29歳。
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/06/F6D76809-E698-42B1-8023-F8634E97F9D1-1024x768.jpeg)
佐々木小次郎。当時70歳前後。
歳の差、ありすぎっすね。w
彼らの生きた江戸を経て、
時代は明治・大正へと移り変わります。
敷地内には、こんな碑が。
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/06/2CFE9281-0182-42E0-BEC1-E846BD7CBD5F-1024x768.jpeg)
「第十二師団司令部跡」とあります。
ぐるりと周囲を探してみると、
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/06/00E6973F-222D-4958-A385-BD6B59860CA1-1024x768.jpeg)
レンガ作りの門跡が。
そういえば小倉城内に、
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/06/BAD14760-20F6-43A6-970A-DBCDC2EF8857-1024x768.jpeg)
写真がありました。
城がない・・・!
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/06/5D39F502-3A32-4721-A385-F8CBF287214E-1024x768.jpeg)
復元された大砲と砲弾の展示も。
これ、普通に敷地内にポツリとあって
なんか、もったいないというか・・・
もっと大々的にうたってもいいのになあ
皆、そんなに興味ないんかなあ。w
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/06/BD35098A-C9DA-4402-ADA8-CD194A68E4E5-1024x768.jpeg)
説明書きを見て思わず吠えたのですが、
森鴎外も、界隈に滞在していたようです!!
軍医として働いていたとは存じ上げていましたが
こちらにおわしたとは!
近くに森鴎外の旧居跡もあるようです・・・!
下調べもせずに行くと、思わぬ出会いに震えますね!
決して面倒で調べないわけではないですよ!ww
基本情報(高校の教科書+NHK歴史番組)は
抑えていますので、そこからふんわり
想像しながら、旅をしています。
旅の記憶というものは、やはり1人で、無計画なときに出会うものに大きく占められてきます。大勢で行く計画的な旅も楽しいのですが、その楽しさは仲間と過ごす時間に割合をとられ、土地そのもの、当地の人そのもの、歴史そのものの記憶が薄まってしまう気がします。
心を大きく揺さぶられる出会いは、感動する出会いは、どうしても思惑の範疇を超えたところからやってきます。これだから旅はやめられない!!
次回はやっとこさ本場の角打ちへ!
といきたいところですが、
近くに八坂神社があるのです。
京都人としては行かずにはおれますまい。
前回の旦過市場編は、こちらからどうぞ・・・
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