ビワイチ旅・2日目 中編①
前回は長浜城と黒壁スクエアを尋ねて
黒漆喰の美しさに息を飲んできました。
今回も長浜・黒壁スクエア界隈を
もう少しだけ散策してまいります。
今回のラインナップは、こちら・・・
◆大通寺参道にキツネの姿?
「大通寺きつね物語」ゆかりの地
◆巨大建築に刮目せよ!
「大通寺」は〇〇〇からの移築物!?
大通寺参道にキツネの姿?
「大通寺きつね物語」ゆかりの地
商店街をうろうろしていると、
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時折、水路が顔をのぞかせます。
もしかしたら長浜城の外堀かも。
別のところには歴史を感じる石垣が残っています。
ここは新しそうですね。崩してしまったのかしら。
それにしても界隈の水路はどこも
高い建物に囲まれていたり、案内板がなかったり
ちょっともったいない気もします。
古地図を見る限り、長浜城下はそれはもう、
立派な水運都市でした!!
水の上にお城があるような、神秘的な造り。
山の上から望んでみたかったな・・・
さらに奥へ進んでいくと、
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お寺っぽい山門が見えます。
結構立派な感じ・・・
と、油断していると、
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/11/16472088-AFF4-424F-9282-739611E0044F-1024x768.jpeg)
これまたひっそり水路が・・・
って、あれ?
なんだか、キツネに見えるような・・・
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完全にキツネモチーフでした!!
大通寺には『お花きつね物語』という
昔話が残っているそうです。
案内いわく、この石柱のインターホン?を押せば
メルヘン?が聞こえてくるそうです。
何のことやら・・・w
恐る恐る押してみます。
ポチっとな(古)
・・・確かにメルヘン?な音楽が流れ始め、
昔話の朗読が始まりました。
このメルヘン、結構なボリュームです。w
恥ずかしくて逃げ出したくなるくらい、
あたりに響き渡りますww
大通寺お花きつね物語
昔から大通寺の大広間の天井には、キツネが住んでいると言われています。天井へはハシゴがかかっていて、油揚げをお供えする人が多くいたとか。
時代は江戸までさかのぼります。当時、大通寺は長浜城跡にありました。もっと賑やかな街中への移転案が出たときに、賛成派と反対派で大揉め。東本願寺のエライお坊さまに判断いただくべく、賛成派は琵琶湖を舟で渡って京都へ、反対派は歩いて京都へ向かいました。
その道すがら、反対派一行は途中で茶店に立ち寄ります。茶店の娘はお花といい、丁寧なおもてなしに一同すっかり気を良くしてしまい、酒を飲んで酔っ払ってしまったこともあってか、その日はそこへ泊まることに。しかし翌日出発すると、川が増水していたため渡ることができません。水が引くのを待つこと5日、ようやく渡れたと思うと、帰路の賛成派一行に出くわします。聞けば既にお坊さまから移転の許可をいただいてきたとのこと。決まってしまったことはもう仕様がありません。
反対派一行も帰路につくと、あの茶店の姿がありません。当然、お花さんの姿も。地元の村人に尋ねると、「そんな茶店はない」という。
「そういえば大通寺のキツネも、お花という名前であったか。キツネに化かされたのかもしれない。キツネが移転に反対なら、仕方がない」と、移転問題は一件落着。めでたしめでたし。
お花キツネのお話は江戸時代のことなので、
そこまで古いものではありませんね。
それにしても揉め事をキツネが解決するとは。
それだけ人々の生活に、
生き物が身近だったということでしょうな。
「お花さんのおはなし」石柱
滋賀県長浜市元浜町15−1近くの橋
Mapはこちら
※長浜御坊表参道、「居酒屋えん」の南側の橋
巨大建築に刮目せよ!
「大通寺」は〇〇〇からの移築物!?
昔話を堪能して、そのまま奥へ進めば
長浜別院大通寺があります。
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ちょ、デカくないですか・・・?
この巨大さ、京都駅近くにある
東本願寺の香りがします。
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無碍智山(むげちざん)とありますな。
無碍は「融通無碍(ゆうづうむげ)」の無碍ですね。
碍というのは、障害のこと。
つまり、障害がないことを無碍といいます。
おそらく四無碍智(しむげち)から
きているのだと思いますが
勝手に四を取ってしまって良かったのかしら・・・
四無碍智は、仏さんがもつ物事を自在に理解したり、
表現したりする四つの能力のことです。
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彫り物も立派・・・!
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/11/5C403E12-66A3-4BA8-B060-7D66FA0C3015-1024x768.jpeg)
本堂もデカい。
何でも、伏見城から移築したものだとか。
伏見城といえば、豊臣秀吉が築いたお城。
ここにも秀吉の遺構を見られるなんて。
さすが天下人やなあと、しみじみ。
実はこの大通寺、教如が開基のお坊さま。
歴史の表舞台にも登場するキーパーソンなのです。
顕如と教如の親子
開基は教如(きょうにょ)。信長とバチバチにやりあった顕如の息子。あの信長を10年にわたり苦しめたお坊さまであり、当時の日本中の武将を震撼させた「一向一揆」の中心になった人物。ここまで聞いただけでも、めちゃめちゃヤバいお坊さまです。
信長との対立のきっかけとなったのは、信長からの束縛でした。足利義昭を将軍に担ぎ上げて上洛した信長は、当時戦国大名にも匹敵する力を持っていた本願寺に、様々な制約をつけていきます。顕如の堪忍袋の緒を切ったのは、信長からの「石山本願寺を渡せ」という命令。さすがの顕如もブチギレ。信長に敵対していた三好、信長と不仲になりつつあった足利義昭、浅井、武田、朝倉、そして現在の和歌山にいた鉄砲集団・雑賀衆、四国の毛利とも包囲の準備を進めつつ、信長を攻め続けます。が、それも退けてしまう信長、さすがっす。
窮した顕如は信長との和睦を選択。しかし息子の教如が猛反対、勝手に抵抗を続けてしまいます。それでも何とか教如を追い出したものの、直後に本願寺は炎上、燃えてなくなってしまいました。そうこうしているうちにライバルの信長が本能寺の変で亡くなり、豊臣政権に移ります。何と秀吉は本願寺跡に大坂城を造っちゃった。本願寺、ピンチ!しかも秀吉の命令によって本願寺は京都へ移転。加えて教団のカリスマ・顕如が間もなく亡くなります。本願寺、絶体絶命の大ピンチ!!
本願寺の跡継ぎには、顕如の三男・准如(じゅんにょ)が選ばれますが、そうこうしているうちに時の政権は徳川家康へ。実は家康は、教如派でした。せっかく本願寺に跡継ぎが据えられたのに、家康は教如に莫大な土地を寄進します。こうしてできたのが、東本願寺。区別するため、本願寺は西本願寺と呼ばれるように。
恐るべし、お坊さま。
カトリック宣教師たちとはまた違った
恐ろしさがありますな。
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横から見ても、隙が無い。さすが秀吉。
山門も横から見てみましょか・・・
![](http://kyoto-meikyuannai.com/wp-content/uploads/2019/11/37F5AF24-CA4A-47B0-AD39-5A0BF457DACA-1024x768.jpeg)
こちらも隙がない!
1階部分に屋根はあるものの、楼門のような構造。
2階にもあがれるんかな?関係者だけやろか。
この辺りは平地なので、
さぞ琵琶湖がキレイに見えるやろうなあ
長浜別院 大通寺
滋賀県長浜市元浜町32−9
Mapはこちら
さて長かったビワイチ旅も、次回で最終回です。
湖北を周って湖西を攻めてきます。
1日目の旅は、こちらからどうぞ・・・
2日目は、こちらから・・・
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